本当の意味での語彙力

受験生の頃は要領重視、とか言ってとにかく必要最低限のことだけやっていた。

今思えば、これは脳に負担をかけることから逃げていたのかもしれない。

私の塾では、英語で一定以上の成績を収めた、と認定されると、速読英単語上級編が配られる。

貰ったのは9月頃だった。毎週単語テストがあるので、覚えなければ、と躍起になっていたのだが、その頃から生活リズムが崩れてしまい、結局途中で頓挫してしまった。

私と一緒に単語帳を同時期にもらった、今でも良く遊ぶ4人は、ちゃんと速単に取り組み、毎週の単語テストで結果を出していた。

そして、全員ではないが、みんなが明治以上の大学に合格し、実力を示した。

自分は圧倒的な志望校の対策で実力不足を補い、なんとか合格したものの、客観的に見れば当時の私の総合的な英語力は、この4人からはかなり見劣りするといえる。

当時はなぜなのか分からなかった。そして、自分の高校の偏差値が低かったこともあり、どこか地頭を言い訳にしていたところがあった。

今ならわかる。英語とは総合力なのだ。そして、その総合力を高めていく上で、最も大切なのが、語彙力、つまり、言葉を多く知っていること。ではないかな、と思うのだ。

英語だけではなく、現代文、なんなら歴史の勉強においてもこれは言えるだろう。

自分は言葉の定義をすらすら言えるまで理解することなく、単語をそのまま単語として覚えていた。

これでは意味がない。勿論時間がない時には作業を省くのは必要なのだが、受験勉強初期の余裕ある時に、とにかく自分の知っている言葉を増やす作業が必要ではないか?と思うのだ。確かに受験では漢字をそのまま読めたり、書いたりすることが大事かもしれない。

ただ、その勉強ではいずれ壁にぶち当たる。知らない言葉が多いのに、早慶の抽象的で専門性の高い英文や現代文、小論文を読んでも早く読めるはずがないし、実際には読めているのかどうかすら怪しいだろう。

今の時期にこんなことを言うのは違うとわかっているが、最近今更コトバの定義の重要性に気づいた。現代文の先生がずっと言っていたはずなのに...

もし自分で壁にぶつかった、と感じたら、専門的な対策をしながら、同時に自分の語彙力に眼を傾けてみて欲しい。

断言する。

言葉を多く、正しく知っていて不利に働く場面はない。

抽象化された世界を読み解くには、語彙力が必要不可欠なのだ。